元亀3年(1572)、伊東氏と島津氏は木崎原(えびの市)で大激戦を展開した。この戦いで伊東氏は大敗し、急速に滅亡の一途をたどることになる。しかし、その悲劇がなければ伊東マンショの誕生もなかった。
南北朝時代の建武2(1335)年、伊豆国から下向した伊東氏(祐持)が都於郡の地に築いた山城で、以来242年間にわたり日向の地を治めた伊東氏累代の居城として栄華を極めた。遠くから眺めた景観が、舟が浮いているようにすばらしかったことから、別名を「浮舟城」という。伊東マンショの育った場所でもある。
大きな岩に干(カルワリオ)十字という十字架が彫られている。制作年代は不明だが、大友宗麟の時代、野津地区には6000人のキリシタンがいたといわれており、その頃のものではないかといわれている。
臼杵湾に浮かぶ周囲3キロの黒島という小さな島に、1600年オランダ船リーフデ号が漂着した。この船に乗っていたイギリス人のウィリアム・アダムスが上陸。日本に上陸したイギリス人としては彼が最初で、黒島が日本で英語が話された最初の地とも言われている。後に日本名・三浦按針を名乗り、徳川家康の外交顧問として大きな影響を与えた。
大分市の遊歩公園に遣欧使節正使で、のちにイエズス会司祭となった伊東マンショの銅像がある。ここにはこのほか、聖フランシスコザビエル、西洋医術発祥記念像、西洋音楽発祥記念像などキリシタンや南蛮文化との交流を記念する像がたくさんある。
日本人として初めてキリスト教の聖地エルサレムに入った人として尊敬を集める。長崎のセミナリオ卒業ののち追放、司教になるため、ローマへ。熱心な修行により司祭になるが、あえて迫害の厳しい日本に帰国し、潜伏しながら布教活動を行うが、捕らえられて殉教する。毎年10月、国東市国見町にあるペトロ岐部記念公園で殉教祭が行われる。