『日向の領主、伊東義祐は「島津など竹竿一本あらば追い払うてみせよう」と豪語していたが、その島津義祐勢三百に伊東勢の主力3千が木崎原一帯で徹底的に撃破された。十倍の敵を壊滅させたというような戦は信長の桶狭間の戦いのほか未聞である。
以後、一年の間、抵抗はほとんどむなしく伊東義祐は日向を捨てて豊後に逃れ、臼杵の宗麟に救援を求めた』
…と遠藤は書き、続けて伊東義祐に次のように敗戦について説明させる。
『「島津の戦法は少数の兵をもって味方を油断させ、伏兵を突如、放って撹乱致し」「義祐は呪法者を使うて士気を鼓舞いたす名人にござる。祖父、島津日新斎より修験者、僧らを細作、忍者として日向の隅々を歩かせ、調べに調べつくしたことも後になって、あいわかり申しました」』
実際、数的に圧倒的優位にもかかわらず、伊東氏は敗れた。木崎原の合戦のことを九州の桶狭間と呼ぶ人もいるほどだが、九州の戦国時代の分岐点になったといっても過言ではない。
遠藤は宗麟に与えただろう影響も見逃さない。
海に面した明るい豊後育ちの宗麟には薩摩大隅という国には手をつけず放っておいたほうがいいという気持ちがある。その気持ちをうち消すように宗麟は
「小手先き巧みな薩摩の兵法。豊後者は惑わされるな」とわざと笑った。
しかし夜になるとこの男の癖で、
「常時不動心」
と闇のなかで叫ぶほど伊東義祐の日向逃亡は彼の心に影響を与えた。…
(遠藤周作「王の挽歌」-新潮文庫―より要約)
一方、「伊東氏の豊後落ち」のもう一人の主人公は幼い頃の伊東マンショ。時に8歳。義祐の主従一行120余人は、穂北から尾八重、神門、高千穂河内と険しい九州山地を島津軍に追われながらの逃避行だった。手足を傷つけ血をしたたらせながらのつらく悲惨な旅となった。しかし、この悲劇がなければ後の遣欧使節に名を連ねることもなかったし、マンショを名乗ることも歴史に名を残すこともなかったのだから人の運命というものはわからないものだ。マンショにとってあの九州山地逃避行に比べれば、ヨーロッパへの長い困難な船旅も、希望以外のなにものでもなかったろう。