龍馬を中心に同志によって結成された(慶応元年1865)。海運業、通商、の商業活動の他に薩長同盟など討幕運動にも参画した。後の海援隊の礎。社中跡を中心に「龍馬通り」には司馬遼太郎の文学碑、龍馬の像、ブーツ像、カメラマンの祖・上野彦馬(熊本の富重写真館ともゆかり)の墓などが続く。
ぶらぶら節にも登場する風頭山、長崎港を一望する風頭公園に建つ。長崎龍馬会がリードして全国から募金した1千万円で建てた。腕組みをし、左足を踏み出したポーズは、明日を見据えた行動派の龍馬にふさわしい。誰でも触れるような高さなのも有難い。
嘉永六年(一八五三)、ペリー来航によって太平の眠りをさまされた島国日本。右往左往する世情にあって「大義を四海に布かんのみ」と世界を見据えた男がいた。勝海舟をして「おれは今までに天下で恐ろしいものを二人見た」と言わしめた人物である。一人は西郷隆盛、そしてもう一人が幕末の肥後が生んだ思想家横井小楠である。
「横井小楠と維新群像」碑。小楠生誕190年・没後130年(平成11年)を機に建立された。小楠を中央において左から坂本龍馬、勝海舟、松平春嶽、細川護久が並ぶ。(熊本城下・高橋公園)
龍馬の盟友の一人、横井小楠、幕末にあって世界を見据えた開国論者、福井藩に招かれて福井藩に寄与した。江戸で勝海舟や龍馬との親交があった。小楠が蟄居していた熊本の郊外「四時軒」に龍馬は3度訪ねてきた。その部屋が、残されている。
寺田屋事件の跡、西郷隆盛に誘われて大阪を出発し鹿児島へ。新妻のお龍をともない霧島などを旅行した。塩浸(しおひたし)温泉に二人の像が立つ。
この一帯、新川渓谷温泉郷と名付けられ、塩浸温泉はじめ安楽温泉、日之出温泉、日当山温泉、妙見温泉が湯煙りをあげている。どこに泊っても龍馬、お龍の気分に浸れる。
標高1,700mの韓国岳を主峰に、新燃岳や高千穂峰などが連なる火山群「霧島連山」。大浪池などの火口湖や原生林、野鳥、植物の四季折々の表情を観察しながら歩くトレッキングが楽しめる。