「勝海舟日記」によると一行は2月14日、海軍塾生の訓練をかねて兵庫を出帆、翌日、佐賀関到着、豊後街道を熊本へ向い、20日熊本新町の本陣に止宿。20日夜有明海を渡り、翌朝島原港上陸、諫早を通り矢上宿、長崎へ着いたらすぐ奉行役所へ出向いている。
ところで、矢上宿(日見トンネルの手前)の入口に当る東望(地名)に小曽根家がある。
龍馬は長崎に4月4日まで逗留、復路も同じ道を帰った。この間、丸山の「花月」の床の間の柱に、刀傷をつけたものと思われる。
三月十七日いよいよ傷に効くという塩浸温泉へ出発。姫城の湯けむりをくぐり急坂を越えて、西方に桜島、東方には霧島連山が見える稼原台地にたどり着いた。ここを下り犬飼滝へと流れる川辺に沿って進み、和気清麻呂公を祀った和気神社を経て雑木の生い茂る山道を抜け、願望の塩浸温泉に着いた。
岩盤の切り立つ絶壁が渓流を挟むように迫る川のほとりに湧き出ているこの温泉は、傷ついた鶴が飛来したことから鶴の湯と呼ばれ、親しまれた温泉でもあった。
龍馬とお龍さんは毎日温泉三昧。渓流で小魚を釣り、生涯でもっとも楽しい幸せな日々を過ごして龍馬の手の傷も日増しに良くなり、三日間があっという間に過ぎてしまった。温泉場で知り合った人の案内で滝を見に出かけ、途中下中津川のほとりにこんこんと湧き出て和気清麻呂公が入浴したという温泉を過ぎると滝が見えてきた。滝の天上には霊峰高千穂の峰がみごとに重なり聳えたっている。
「和気清麻呂がいおりおむすぴし所蔭見の滝、其滝の布ハ五十間も落て、中程にハ少しもさわりなし実此世の外からおもわれ候ほどのめづらしき所ナリ。此所に十日計も止りあそび、谷川の流れにてうおゝつり、短筒をもちて鳥をうちなど、まことにおもしろかりし」(手紙原文のまま)
龍馬は滝壷の淵の岩を乗り越え滝裏の大きな穴に這入り込み(高さ約三メートル、広さ約三十畳)午後の太陽が岩穴の中から、滝越しにキラキラと光り輝く様を見て、「実此の世の外かとおもわれ候」と書き、また龍馬が方言で聞いたインケン滝を蔭見の滝と書き送っている(犬飼滝のこと)。
朝湯を浴びてから遂に高千穂登山の決行である。険しい山の登山で何回もわらじを履き替えながら登った。右下はすり鉢のように丸くて深い火口、左端は急な斜面の崖で馬の背のような道を通り、途中の平地で小松家老より貰ったカステラを食べ元気を取り戻し、再び急坂を登り一五七四メートルの峰に登り着く。頂上に立てられた天の逆鉾のおかしな天狗の顔つきに大笑いした。
姉乙女あての手紙で龍馬は、「此サカホコハ少シうごかして見たれバよくうごくものなり△あまりにも両方へはなが高く候まゝ両人が両方よりはなおさへてエイヤと引きぬき候時ハわずか四五尺斗のものこて候間又"本の通りおさめたり」(原文のまま)
と書き送っている。霧島つつじがきれいに咲いた山を下り、高千穂河原でひと休みして霧島神社にたどり着いた。