肥前ビードロの歴史は、幕末にさかのぼる。大砲製造のために作られた精錬方(せいれんがた)において、化学製品の容器製造の研究のためにガラス器製造を手がけたのがはじまり。いわば軍需産業が平和産業を生んだ。
長崎ビードロとは異なり、オランダ、ポルトガルの文献から独自に学び取った技術が生かされている。肥前ビードロの最大の特徴は、宙吹き技法にある。宙空でいっさい型を用いず、息の吹き込みとわずかな道具だけで形を作り上げるジャッパン吹き(二刀流)という技法で作られる。
①1300度の高温の窯から、溶けたガラス生地をガラス製の「吹き竿」(長い筒)に巻き取る。(この時、生地は水あめのような状態で、外気に触れるとあっという間に固まってしまうので、固まらないうちに筒の先からすばやく息を吹き込むのが職人の腕の見せ所)
②燐かけをし、表面を滑らか にする。
③かたちを大きく膨らます。
④ポンテ付けをする。
⑤焼き戻す。
⑥整形する。
⑦徐冷釜で徐々に冷ましていく。
これらの工程は中断が許されず、一瞬たりとも気の抜けない技法である。現在、このジャッパン吹きの光景は副島硝子工業でしか見ることが出来ない。予約をすれば、ガラス作りの見学が出来る。吹き手とガラスとの微妙な駆け引きの過程でガラスが形を現していくところがドラマチックだ。
のびやかな、手作りのフォルムには、自然界にある曲線とどこか共通するものがあり、伝統と現代の調和を目指している。
肥前ビードロは、昔から佐賀ガラスの名で実用品として親しまれていた。今ではガラス器のほか、コバルトブルー、ルビーなどの色づかいのワイングラス、民芸調のコップ類、花瓶、ビアグラスなどの商品が贈答品や土産として人気が高い。光の当たり具合によって変わる色の美しさが楽しめる。(佐賀市重要無形文化財指定)
江戸切子との違いは、江戸切子が透明なガラスに切子を施したものであるのに対し、薩摩切子は色被せといわれる表面の厚い着色ガラスに切子を施すことによって、切子面に色のグラデーションが生まれる。これが薩摩切子の特徴で、ボカシと呼ばれるものである。
これは、日本で最初の技術といわれている。
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ガラスは当時珍しい時代。明治初期に、各地に出来た洋館のガラス窓が珍しいので弁当持参で見学者が集まっていた(ジェーンズ邸)時代、薩摩でのこのような技術の高まりはひとえに藩主・斉彬の開化主義の実践によるものである。
いわゆる集成館事業の一つにガラスがあった。しかし、文久3年(1863)薩英戦争でガラス工場は英国の攻撃で破壊され、暫く中断が続いたが‥‥。
そして昭和57年薩摩切子の展覧会を皮切りに復活が始まった。