茶葉の形がクルッと丸く、玉のようになっていることから「玉緑茶(通称グリ茶)」とも呼ばれる嬉野茶は、今から550年ほど昔、中国から伝わったといわれる。この地に明から渡来した紅令民という人が南蛮釜を持ち込み、摘んだ茶葉を釜で直接直火で炒る「釜炒り茶」の製法を伝授したのがきっかけだった。
今日、「釜炒り製法」は、手間がかかる上に少量しかできないため、栽培農家のほとんどは大量生産できる「蒸し茶製法」へ移っている。が、釜炒り茶は日本茶のルーツでもあり、その味わいはかつてシーボルトも絶賛したほど。独特の焙じ香があり、喉ごしがさっぱりとして、丸くねじれた茶葉が開くまで何煎でも飲める。現在でも少数の農家では、あえてこの地で昔ながらの釜入り製法によるこだわりのお茶づくりをしている。
幕末期、日本茶を海外に初めて輸出して莫大な富を築いたのが、長崎の女性貿易商・大浦慶だった。長崎で代々油を商う旧家に生まれた慶は、長崎で知り合ったオランダや中国人の話から「お茶」が海外との商売になることに着目する。やがて26歳のときに上海に密航し、そこで茶の取引を見た慶は、日本茶の輸出に取り組むのである。
慶が目をつけたのが「嬉野茶」の品質のよさだった。そこでまずその良さを味わってもらおうと、お茶のサンプルをイギリスやアメリカ、アラビアに送ったところ、3年後にイギリス商人が訪れ、大量の注文をした。ところが当時はまだ嬉野のお茶の生産量が少なく、慶は九州中を回って茶葉をかき集めるのである。そうして最初の取引に成功した彼女は次第にその地位を確かなものとし、やがて得た財をもとに明治維新に活躍した志士たちを支えた。