忠興は、それまでの領国の中心地、中津城に代えて、小倉城を新築し、自らも小倉城に移り住んだ。理由は、
一、交通、交流(特に外国との)の地の利。
二、九州最大の要の地、関門海峡の押え。
三、中国地方の毛利氏の牽制策。
四、隣国の筑前黒田藩への対抗防護拠点
五、新しい町づくりに適している。
が考えられる。
城づくりには五年間かかった。慶長12年に完成した。当時は城づくりのブームであった。黒田福岡城も熊本城も時を前後して完成している。黒田長政、加藤清正、戦国を生きぬいた武将が知恵と経験の限りを生かして、自国を護り防ぐための要塞であり、また城下の人々への畏敬のシンボルとしての城づくりである。
それ故に、小倉城も一工夫して凝った。
四層五階、四層と五層との間に屋根のひさしがない。破風がない。五層が四層より外に張り出している。
さらにビジュアルな色使いにも気を配り、五層のみを黒塗りにした。ぐっと大きく見える効果だ。
石垣の石は足立山から切り出した野面石を使った。
超近代的なモダンな城であるところから"唐風“と呼ばれた。
ちなみに、忠興は、後に八代城主(八代市)として八代の町づくりに携わるが、八代市のそれは比較的碁盤目のようにされている。
忠興は文事、文化行政も共に進め城下の活性化政策を進めていった。
いま、北九州市民、殊に小倉の人々が親しみ故郷の祭りとして盛り上がる「祗園祭り」も忠興が始めた。
"祗園祭り“ 京都のそれは悪霊退散を念う豪華絢爛の八坂神社のお祭りとして始まった。
室町幕府の高級役人で京の暮らしになじんでいた忠興は、京都のそれを己の新天地の小倉の地に取り入れた。
忠興が肥後熊本の八代城主となったのは寛永17年のことである。
八代に移るや直ちに、八代でそれまで行われていた妙見祭を、藩主の直祭りとし、神幸行列を取り入れた。小倉で行っていたのと殆ど同じスタイルの華麗さである。ならば祗園祭りと妙見祭は兄弟か。新しいイベントも考えられる。
このように祭り一つをとってみても優れた武将であるだけでなく忠興の文人としての資質が判る気がする。各地の祭りのルーツを手繰り寄せて研究しながらの祭巡りも新しい発見があろうというものだ。
忠興は和歌、絵画にも通じていたが、茶の湯は千利休の七哲の一人であった。
茶の湯は当然茶陶と深くかかわっている。
陶器づくりにも新しい境地を開く。
まず、陶匠・尊楷を招いた。尊楷は加藤清正が朝鮮から連れ帰った匠である。
尊楷のもとに、城下(菜園場村)に忠興の趣味の窯を開き陶器を焼いた。殿様専用の窯であると伝えられている。
忠興は趣味を越えて産業としての窯を研究していたようだ。
その証に、現・田川郡赤池町上野の地に土地を与えて尊楷に御用窯を開かせた。現在上野焼の里としてしられる上野窯の起源である。
上野の地は良質の粘土を産する。小さな尾根を挟んで数百メートルの地(直方市)には高取焼の窯がある。
高取焼は福岡・黒田藩主黒田長政が朝鮮から連れ帰った陶工・八蔵(八山)に開かせた御用窯である。二つの窯は共に同じ高取山の地質の粘土を素材としている。隣接した場所で、藩を異にし、殿様を異にする窯の技術競争は凄いものがあった。その結果、二つの窯は現在まで生き残ったのであろう。
話を尊楷に戻そう。尊楷は名を日本名の上野喜蔵と改めた。後に寛永9年(1632)細川氏が熊本に移るのに際し、上野に実子・十時孫左衛と嫁婿の渡九左衛門を残して、身は忠興に従って八代市高田に移り、肥後の地に高田焼の窯を開いた。ここで、また焼物の結びつきが発生する。