孔子(こうし) 名は丘。字は仲尼。前五五一~前四七九。儒家の祖。魯に生まれた。当時、魯は孟孫氏、叔孫氏、季孫氏のいわゆる三桓が、公室をしのぐ勢力をもっていた。その三桓のひとり季孫氏は、臣下の陽虎に実権をうばわれるありさまであった。孔子は、この風潮を憂い、政治改革を志したが成功しなかった。五十六歳のとき、魯を去り、衛、宋、鄭、陳、蔡、楚の諸国を歴遊し、みずからの理想を実現せんとしたがついに果たせず、六十九歳十四年ぶりに魯に帰り、以後は文献の整理、弟子の教育に専念した。『書経』『詩経』『春秋』は、孔子の手を経て成ったとされる。孔子は、中国で教育の集団を形成した最初の人であり、その弟子は三千人、主な者は七十二人であったとつたえられる。孔子の言行はのちに弟子たちの手によって、『論語』としてまとめられた。『論語』によれば、孔子は仁の実現を目指していた。仁は、「真に人間らしい生き方」といいかえられよう。その政治への表われが徳治主義である。孔子は、為政者が「仁」をめざすことで人民を感化するという政治のあり方を求めていた。かれの思想は弟子から弟子へと受け継がれ、戦国時代に入って、孟子や荀子によって、体系化された。さらに漢代になると、儒学は唯一の官許の学問となり、一種の宗教的色彩を加えて儒教と呼ばれた。儒教はその後約二千年にわたり、中国のみならず、その文化圏に属する朝鮮、日本、越南等の政治、文化、思想に深い影響を与えた。
出典 中国の思想別巻「中国の故事名言」和田武司・市川宏編 (徳間書店)
「吾十有五而志於學三十而立四十而不惑五十而知天命六十而耳順七十而從心所欲不踰矩」
「われ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず、五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲するところに従えども、矩を踰えず」(為政篇)。
これは論語の中でも古くから日本人の生活に馴染んでいることば。
大意は次の通り。
孔子はいわれた、
私は十五歳の時に志学、学問で身を立てようと決心しました。
三十歳の時に而立、基礎がしっかりして、独り立ちができるようになりました。
四十歳の時に不惑、狭い捕らわれから自由になり、心の迷いがなくなりました。
五十歳の時に知命、天が自分自身に与えた使命を自覚しました。
六十歳の時に耳順、何を聞いても素直に受け入れることができるようになりました。
七十歳の時に従心、自分の心のままにしたいと思うことをしても、人の道を踏み外すことがなくなりました。
これはほぼ十年の単位で、ひとつずつ進化を遂げたことを表しているものといわれているが、人生八十年までは予測していなかったか…。ちなみに荘子には中寿八十とある。