●桂離宮と並ぶ八条宮家の遺構
日本で第一級の迎賓館、と胸を張るにはそれなりの理由がある。
この建物は京・八条宮邸の中の八条宮智仁親王の学問所とされていた。この部屋で親王は幽斎から古今伝授を受けたかけがえのない由緒があること。
その建物が(幾許かの材の補充はあったものの)当時の材のまま原図通りに復元されている貴重な文化財であること。(熊本県・重要文化財)
この深い歴史的意義をもっている。
桂離宮と並ぶ八条宮家の遺構と賞せられるこの部屋の中に入ると、公家のもつ明るい開放感につつまれる。日本の和歌の奥義を受けたという豊潤な文化の香りが漂ってくる。
この幸せは他では絶対に味わえない。
昭和天皇・皇后、今上天皇・皇后はじめ宮家の方々も足を運ばれた。
この畳の上でお抹茶を差し上げるおもてなし、これぞ熊本一の"迎賓の間“と声を大にして言える価値ある建物である。
明治四年二月、桂宮家の領地であった長岡天満宮の地が京都府へ公収されることになった。熊本藩では細川家と関係ある二つの建物が長岡天満宮境内に存在していた。一つは細川家を祀る「長岡明神社」であり、他の一つは幽斎が八条宮智仁親王に古今伝授を行った「長岡御別荘」であった。熊本藩ではこれらの二つの建物は桂御所に移したが適当と言うが桂御所には適地はなく、「長岡明神社」は熊本藩の京都屋敷であった壬生邸へ移され、明治四年三月廿日に遷座が行なわれた。「長岡御別荘」については、熊本藩の京都屋敷であった壬生邸にも適地はなく、取り敢えず、幽斎が八条宮智仁親王に古今伝授を行った座敷を中心にして、後で増築した台所、湯殿、雪隠などは取除くと言う。そして、幽斎が八条宮智仁親王に古今伝授を行った座敷(古今伝授の間)の建築材料のみを解体し、船便で熊本藩大坂屋敷の蔵に送り、保存することになった。
その後、廃藩となって熊本大坂出張所も廃されて、「古今伝授の間」の再建は中止になった。この「古今伝授の間」の材料と蔵を保存したのは、大坂の用達商人清水常七であった。明治四十四年、常七の子、清水勉は「古今伝授の間」の材料を細川家に献納した。細川家では一時官有になり、その後祖先歴代の神霊を祀る出水神社の所有になる水前寺成趣園に再建することになった。水前寺成趣園では明治十年の「西南の役」で、御茶家「酔月亭」が焼失し空き地になっていた。長岡天満宮での解体から四十年が過ぎていた。
細川家では浅井栄 を建築の任に当らせるが、四十年の経過で当時の材料で腐朽しているのも多かった。幽斎が八条官智仁親王に古今伝授を行った座敷(古今伝授の間)の平面図にそって、再建に当たるが、完全に当時の材料が使えたのは、付書院の全部、床の間の框と天井廻縁、洞庫の銅板、西側の遺戸(竹林七賢ノ絵)の四枚、東入口の板戸(雲龍墨絵)二枚、座敷の鴨居と欄間それに柱二本などであった。その他腐朽していた部材については新しく補っている。
このように「古今伝授の間」の平面については史料をもとに再建が行なわれているが外観については史料がなかったと思われ、京都の桂離宮、大徳寺の龍光院などを参考に作ったと言う。このようにして再移築なったのは、大正元年十一月五日であった。