日向国奈須の山村において
今も行なわるる
猪狩の故実
序
一 阿蘇の男爵家に下野の狩りの絵が六幅ある。近代の模写品で、武具や紋所に若干の誤謬があるということではあるが、私がこれを見て心を動かしたのは、その絵の下の方に百姓の老若男女が出てきて見物するところを涅槃像のように画いてあるのと、少しは画工の誇張もあろうけれども、獲物の数が実に夥しいものであることと、侍雑人までの行装がいかにも花やかで、勇ましいといわんよりはむしろ面白い美しいと感ぜられたこととである。下野の年々の狩は当社厳重の神事の一つであった。遊楽でもなければ生業ではもちろんなかったのである。従ってある限りの昔の式例作法はこれを守りこれを後の世に伝えたことと思われる。これがまた世の常の遊楽よりもかえってはるかに楽しかった所以であって、例としては小さいけれども、今でも村々の祭例のごとき、これを執り行なう氏子の考えが真面目であればあるほど、祭の楽しみのいよいよ深いのと同じでわけである。『肥後国誌』の伝説によれば、頼朝の富士の巻狩には阿蘇家の老臣を呼び寄せて狩の故実を聴いたとある。しかし坂東武者には狩が生活の全部であった。また総角の頃から荒馬に乗って嶺谷を駆け巡り、六十年七十年を狩で暮らす者も多かったのである。何を偏士の御家人に問わずとも、立派に巻狩はできたことであろうから、この説は信用するには及ばぬ。が、ただこの荒漢たる裾野が原も、阿蘇の古武士にとっては神の恵みの楽園であって、代々の弓取がその生活の趣味をことごとく狩に傾けておったことは明らかである。ところがその大宮司家もある時代には零落して、初めは南郷谷に退き、次には火山の西南の方、矢部の奥山に世を忍び、さらにまた他国の境にまでも漂泊したことがある。(後略)