旧松本邸のハーフティンバー外壁は、飾り柱の表面をサーフグリーン(わさび色)に塗って、残りをしっくいで埋め込み、英国調のシックな壁面を広げている。しかし壁の内部は和風建築方式が採用されており、ヒノキの一五センチ柱を真壁(土)で包んでいて和洋折衷だ。これは明らかに、日本の風土に合った材料と技術を用いて建物を長命にしようと、辰野金吾が考えたこと、しっくいの難かしさは、仕上がりのずっと後で、材料の具合や練り上げ技術、鏝技(こてわざ)のすべてが表われ、悪くすれば亀裂が走りかねないのである。その基礎作業に「こね屋」といわれる工程があり、石炭や貝灰、砂と (すさ)(わらなどを短く切ったものを土にまぜひび割れを防ぐ)に海藻を煮てつくったのりを混ぜ合わせて、鍬(くわ)で丹念に練り上げる汗だくの作業がある。辰野の判断が確かであったことがこの館で実証されているのを見ると、便利社会を生きる私たちは鏝(こて)技術のような大切なものを見殺しにしてきた気がしてならないのだ。国指定重要文化財。
明治時代後半の上流社会では、和風暖炉が一つの流行となっていたようだが、現存しているものはまれであろう。旧松本邸の西洋館二階にある座敷大広間の暖炉で、まさに和洋折衷となっている。書院造りの棚に、ビルト・インタイプの暖炉をはめ込むとは、随分思い切ったことをしたものだ。棚板にゆるやかな曲線を持たせたり、暖炉ひさしを円弧状にふくらませ、周囲には高島北海(一八五○ 一九三一)の絵を花づくしで配置したりして、アールヌーボースタイルを採り入れつつ、独自の室内意匠をこらしている。高島北海は工部省の鉱山技師などを務めた後、五十歳を過ぎて画業に専念した。フランスのナンシー森林学校へ留学して、地質学や植物学を習得、科学の眼と詩情あふれる表現力で世界の山岳風景を好んで描いた。しかし、その根底には独自の山水画の確立を目指す志があったようである。その画業に対する姿勢は、とうとうと大河のごとく八十二歳まで精力的に続けられ、画風は澄明で気 に満ちている。暖炉に向かって右側に春のタンポポ、牡丹、藤の花など、中央は枇杷にざくろで夏、左側は秋で、紅葉と菊花が描かれている。国指定重要文化財。
〔1854(安政1)01919(大正8)〕明治・大正期の建築家。辰野隆の父。肥前(佐賀県)出身。工部大学校(東大)卒。英人コンドルに学び、イギリスに留学後、1884(明治17)東大に日本建築の講座を設け、'98東大工科大学長。1902退官し、翌年、辰野葛西建築事務所を創立。'05大阪辰野片岡建築事務所を創立。建築学会会長もつとめた。明治期建築界の開拓者・指導者である。主建築に1896日本銀行本店、1914(大正3)東京駅がある。【コンサイス日本人名事典】