[1793頃〜1851]
石工であった父・宇七と林七から知識と技術を学び、肥後の石工の中でも特にすばらしい功績を残した。八代の干拓工事でも活躍し、当時、武士以外では異例のことである姓(岩永)を受けたこともその実績による。彼は、熊本初のアーチ式水路橋である「雄亀滝橋」や「聖橋」を架けた。その後、薩摩藩の強い要望により薩摩(鹿児島県)へ卦き、「甲突川の五石橋」などを手がけた。
全国に肥後の
石工の名を広めた
[1822〜1897]
丈八は林七の孫にあたり、種山石工の全盛時代に最も活躍した石工のひとり。「通潤橋」や「御船川目鑑橋」の架橋に携わり、その実績から明治政府に招かれて東京でも「万世橋」や「浅草橋」などの石橋を架け活躍した。丈八も姓(橋本)を名乗ることを許され橋本勘五郎という名前に変わった。
[1867〜1947]
鳥居橋や荒瀬橋など、院内を代表する石橋を10基以上も架けた名棟梁・松田新之助。
彼は父の土木工事を手伝うため関西でアーチ設計の技術を学び、帰郷した後は、院内の地形にあった石造アーチ橋の架設に情熱を注いだ。
1924(大正13)年、架設中の富士見橋が、突然大きな音とともに崩落。しかし新之助は私財を売り払い、名工としての意地と信念で再び架設、翌年には見事に富士見橋を完成させた。石橋づくりに生命を燃やした「石工の魂」を伝えるエピソードは、今も私たちの胸をうってやまない。
こて絵とは、土蔵や家の戸袋、壁などに描かれたレリーフのことで七福神、竜虎、鶴亀など幸福を願う庶民の素朴な思いが託されている。一般的に広がったのは江戸時代後期といわれ、宇佐市安心院では、今でも70余ヶ所にこて絵が残り、全国でも一番の密集度を誇っている。