四代続いた大工の家に生れた与助は几帳面で学問好き。体を動かすことを惜しまない。加えてひどく筋がよかった。十七歳ですでに普通の家をきちんと建てるだけの腕前を持っていたくらいだ。
腕のいい大工だったからこそ、風変わりな教会の建築が面白くてたまらない。
曽根に続いて福江の堂崎天主堂、中通島の鯛ノ浦天主堂の建築にも加わった。身分も副棟梁に出世した。
「楽しかったでしょうね。当時外国からきた神父さんといえば、手品のような新知識を持った技術者。教わることは多かったはずです」と語るのは与助の孫の鉄川進さん。祖父が興した鉄川工務店の現社長である。進さん自身も建築構造学を学んだエンジニアだから、知的好奇心が満たされる嬉しさはよく分かるのだ。
一九〇七(明治四十年)に完成した中通島の冷水天主堂では二十八歳の与助は初めて棟梁として設計も担当した。野崎島の野首天主堂、中通島の青砂ヶ浦天主堂…棟梁、鉄川与助の名は次第に上がっていたが、彼は常に謙虚で研究熱心だった。(中略)
高等小学校しか出ていない与助は、日本建築学会主催の講習会には欠かさず上京して参加し、会場の受付担当者からは「いつも一番乗りの長崎の人」と顔を覚えられる熱心さだった。微積分も独学で修め、帝大出のエリートたちに交じって二十九歳で同学会の会員に推挙された。
いつ寝るのだろうか、と周囲が不思議がるほど努力を重ねた与助は、こうした勉学をベースに、さまざまなスタイルの天主堂を造り出していったのである。
棟梁として初めて設計した冷水天主堂は木造だったが、翌年に完成した野首天主堂は美しい赤レンガ造りだ。さらに十年ほどあとには、現地で切り出した石を積んで重厚な味わいの頭ヶ島天主堂を建て、関東大震災でレンガ造りの建物が倒壊したと知ると、当時の最新の工法である鉄筋コンクリートへといち早くスタンスを移した。構造材の変化に合わせて、全体の印象を左右する塔の高さや窓の形などももちろん考慮している。
もう一つのカギは与助の誠実さだ。(中略)
依頼主の大半が貧しい信者である。少しでも彼らの経済的な負担が軽くなるよう棟梁として常に知恵を絞っていた。信者が生活を切り詰めて集めた浄財で建てる天主堂だから、頑丈で美しいものでなくては、というのが口ぐせだった。(中略)
彼が建てた天主堂の多くは今もその土地の風景に溶け込んで、信者の祈りの声を響かせている。西海に点在するそれらの天主堂を巡ってみてほしい。その旅はきっと、真の技術者とはどうあるべきかを示してくれるはずだ。
本文は九州旅客鉄道株式会社発行/「プリーズ」(JR列車車内誌)・1999年2月号、3月号の記事「西海に天主堂を立て続けた棟梁・鉄川与助」(copy by Mari Miyamoto)から一部を引用しました。