清張の描写は、その地の風土のディテールまで描きこんでいて、読む人を観光旅行に誘ってくれる。NO35でも「時間の習俗」の一部を引用したが、ここでは「青春の彷徨」を紹介しよう。心中に火口に向う二人、阿蘇へ向う列車、車窓に流れる小さな駅……映画のカットを見ているようだ。
「列車はたえず山に向かって勾配をのぼった。渓流がある。滝がある。小さな駅をいくつか過ぎた。さんりぎ、ひごおおつ、という駅々の立札を読みながら、木田と佐保子とは、ようやく死地に近づきつつある思いをした。
列車が外輪山の切れ目を乗りこして、平原にかかると、阿蘇の噴煙が右手の山に見える。しかし、ここから見える煙は、山頂にかかっている一つまみの白雲のように、たいへんおだやかで、教えられなければ気がつかないくらいである。二人は列車の窓からそれを凝視していた。
坊中という登山ロの駅で降りた。……終点で降りた。火山観測所がある。そこから溶岩のごろごろした急坂を火口に一キロばかり登った。
巨大な火口壁のふちに立ってみると、下から見ていたのとは思いもよらぬ物凄さだ。轟々と地軸が鳴動して、噴煙は渦巻いて天に冲している。火口壁は周囲約一キロあまり、断崖絶壁で数十丈の高さで火口を見おろす。木田も佐保子もしばらくは棒立ちに立って、この光景に気をのまれてしまった。……」
『「青春の彷徨」は、私が九州にいて、ほうぼうを歩いたときの思い出がはいっている。『小倉にいた関係で、私の行動範囲は九州北部がもっとも多い。ある初夏、深耶馬溪を歩いて一目八景という展望のいい場所の宿に泊まったことがある。ここはひなびた宿が二軒しかなかったが、私の泊まった宿の主人夫婦は大阪者で、聞いてみると、大阪の朝日新聞社の寮の板前をしていたということだった。そのせいで、新聞社の偉い人をよく知っていた。どんな事情で、ここに住みついたのかときくと、あまり多くは言わなかったが、ニヤニヤ笑っているところをみると、どうやら女房と駆けおちでもしたらしい。その晩、主から聞いた話が情死のことであった。山も深く、景色もいいところだけに心中者が多く、山にはいったきり発見されない男女が多いという。 主と断崖の横についた路を登り、台地に出たことがある。そこにも小さな古い部落があった。森藩の殿様が参勤交代のとき、この路を通ったと教えられた。森の藩主は久留島武彦さんの先祖である。耶馬渓の森林の中には栽培の椎茸が多く、その時季に当たっていた。 深耶馬渓から森町を通って出る路は耶馬溪の裏口に当たる。森からは日田に出て福岡へ行く路と、宝泉寺という山間の温泉場を通り小国という古い町に出る路とがある。小国にはいって熊本県になるのだが、ここから杖立温泉、阿蘇の大観峰を通って草原にくだり、噴火口登山となるのである。その途中に九重連山を望む。私は何度この辺を歩きまわったかしれない。このあとがきを書いていても、馴染深い山の姿や小さな町のたたずまいがなつかしく眼によみがえってくるのである。』 |