九州に関係がある作品を『万葉集』に探ってみるとほぼ二百首ある。それを見ると大部分が、博多と太宰府に関係があるのだ。かりに、太宰府文化の粋を二つあげるとすると、一つは大伴旅人を中心にした万葉歌人の作歌集、一つは、菅原道真の詩文集である。
その文学というのは帥、大伴旅人が中心となり、筑前守、山上憶良、造観世音寺長官、笠沙弥満誓とを領袖にして旅人在任の四、五年に栄えた歌文をいう。太宰府跡というのは、いま、都府楼址と呼んでいるところで、古き日の大官庁の礎石が点々として田圃や草原の間にある。その巨大な礎石をみると、かつての壮麗であった太宰府に建築を想像できる。この都府楼址の北背に四、五百mの大野山がある。中大兄皇子が水城についで、百済の亡命築城家に営ませた山城址である。都府楼址の向かって右に時の山があるが、天智天皇の昔、ここに漏刻台をおいた。旅人は在任中、都府楼の後にあった自分の館で、梅見、雪見、七夕の宴をはったり、官人の出張とか都へ帰るときは、送迎の宴をひらいた。ことに盛大だったのは天平二年、(730)正月の梅花の宴で、主人、旅人、憶良、「青丹よし奈良の都は」の作者、小野老、沙弥満誓など一流歌人が集まり、管内の壱岐、対馬、豊後、薩摩からも国司、役人が集まり三十二人も顔をそろえた。
わが苑に梅の花散る ひさかたの天より雪の流れくるかも
旅人
春さればまづ咲く屋戸の梅の花ひとり見つつや春日くらさむ
憶良
「新版・九州の旅」から
原田種夫著(社会思想社刊)
(八代市・芦北郡)
長田王被遺筑紫渡水島之時歌二首
聞きし如 まこと尊く
奇(くす)しくも 神さび
居るか これの水島
(万葉集巻三ー二四三)
芦北の 野坂の浦ゆ
船出して 水島に行かむ 浪立つなゆめ
(同ー二四四)
飛鳥時代の慶雲二年(705)のころ、朝命により大和藤原の京(みやこ)をあとにし、筑紫に遺された長田(ながた)の王(おおきみ)は、肥後の国を訪れたある日、芦北海岸の野坂の浦から舟をだした。王は水島を自らの目で確かめてみたかったのであろう。水島は、その昔、景行天皇が不知火の小島に渡られたとき、喉(のど)のかわきを覚えて神に祈られるや忽ち泉が湧きだしたという伝説があったのだ。
王は伝え聞いたとおりの島を訪れ、湧きやまぬ清泉を目のあたりにして満足した。
冒頭の歌はこの水島行の感動を歌ったものである。
不知火の海は今日も生きている。かって、王が漕ぎ渡っていた日のように。
ふたたび王は歌って川内へ向った。
隼人(はやひと)の
薩摩の迫門(せと)を
雲居(くもい)なす
遠くも
われは今日見つかるかも
(同ー二四八)