東京駅と並ぶ文化価値。懐かしい大理石の洗面所、青銅の手水鉢、今も元気。
幸にも空襲の災からまぬがれた門司港駅は大正3年(1914)建築の荘重なネオ・ルネサンス様式をそのまま今に伝えて多くの人に懐かしがられている。
この駅舎は東京駅よりも十ヶ月早い完成で、お手本は東京駅と同じくヨーロッパの駅を参考にドイツ人技師の指導とされている。
明治24年、博多と門司港を結んだ当時の九州鉄道・鹿児島本線の起点の駅舎は当初今の山口銀行付近に建設されていたが、関門連絡線との連絡に便利な今の場所に新しく造られた。当時は、駅舎のすぐ横が海で、下関からの連絡船が横付けになっていた。駅と船とを結ぶ地下道の入口跡が今もホームの端に残されている。九州と本土を汽車で往来する人は必ずここを通らねば行き来できなかった。
この地下道を手荷物を下げて連絡船に渡っていった。
年輩の見学者達は必ずその頃を思い出し感激する。
当時は門司駅といっていた。後に昭和17年に海底トンネルが開通し、現在の門司港駅に変ったことを知る人も少なくなったが、当時の駅のモダンさと賑わいを知るにはトイレを覗いてみるとよい。
青銅製の大きな手水鉢と、水洗式(当時から)に驚くだろう。大理石とタイル張りの男女別々の洗面所。重厚な御影石の男性用の小便所などを見ると、かつてこの駅の2階にハイカラなみかど食堂があり、往来のVIPをもてなす貴賓室があったことも容易に想像できるだろう。ちなみに駅弁も門司駅が九州最初(明治41年)であった。
門司港駅は九州のモダニズムを先取りし、今も残し伝えてくれている。
明治42年、今から一世紀近く昔に完成した肥薩線は、当時の技術の粋が随所に集まった産業遺構。
そのことを知らなくて旅するのと、知って旅するのでは、旅
の"学習効果“も大いに差がつくだろう。
代表格は矢岳第1トンネル入口両側に残る「石額」。
矢岳側入口には「天険若夷」。当時の通信大臣山県伊三郎の筆。「てんけん えびす(又はい)の如し」と読む。自然の強敵は夷(えびす)=荒々しい外敵のように手強かったの意。吉松側には「引重致遠」「重きを引いて遠きにいたす」。こちらは鉄道院総裁・後藤新平の書。重い列車や物資、人を引いて、遠くまで運ぶことができる喜びと苦難のさまがありありとうかがいしれる。