時刻表を開く。八代から人吉、そして吉松、さらに隼人まで(約136)が「肥薩線」。文字通り肥後くまもと、薩摩のくに鹿児島県隼人までの路線がそう呼ばれている。
宮崎県も通る。真幸駅がそうだ。三つの県を結ぶ"ローカル線"だ。車内では三つのお国言葉も耳にできる。肥薩線の特色は、車窓風景が素晴らしい。人吉までは「川線」、それから先は「山線」の愛称が語るように川と山の景が続く。
球磨川に沿って、左右に迫る山峡の間を縫い、人吉まで24ものトンネルをくぐり、九州奥地へと進む。
「球磨川下り」の船の人と手を振り合う"交歓"もここならではの興趣。
中世の古都・人吉で乗り換えるのも"地列車"らしい。ここまでは「川線」。球磨川と別れて、列車は90度南へ、胸突き八丁の急坂を登る、「山線」が始まる。大畑はループ橋とスイッチバックの二つを備えた全国では唯一の駅。鉄道マニアのメッカの地を過ぎ、矢岳のトンネルを抜けると狭い空間から急に解放され、霧島連峰の大きな山脈がゆっくり見える。
日本一の車窓風景、かつて人吉市で講演したJR東海の須田寛会長が「日本一の車窓風景だ。私が言うのだから折り紙付きだ」「もっと売り出せ」どっと地元が湧いた。
フィナーレは霧島連山のパノラマ‥‥八代から吉松まで、風景の起承転結のドラマが、座りながらにして眺められる。肥薩線はさらに隼人へ延びる。
吉松から隼人まで、さらに山懐を進む。「大隈横川駅」「嘉例川駅」の駅舎まで「はやとの風」が走る。明治の趣を味わいながら、行く手に桜島がどんどん大きく迫ってくる。
今では肥薩線はローカル線的になったが、昭和初期までは九州を縦に結ぶ九州の大動脈だった。
明治42年(1908)に八代—人吉—吉松—鹿児島が開通、
(19年後の昭和2年(1927)になって、今の鹿児島本線ができるまでの間は)、門司(港)から鹿児島までの唯一の鉄道だった。
「海岸線は外敵の艦砲射撃を受ける」からとの国防上の理由で山奥を縫う今の線になった。
急流が川岸を削る球磨川沿いをはじめ特に矢岳一帯の山岳地は歴史に残る難工事だった。ツルハシ、モッコ、すべてが人力の時代に山を穿ちループ橋をつくった。明治の気概がそうさせた。
先人の汗の結晶の鉄路は敷設以来一世紀、びくともしない。当時のままの線路を、今、走っていく。乗っていく。
肥薩線は生きた鉄道博物館といえる。
これほど沢山の埋もれた話題の中を走る列車は、ここしかない。