昭和39年(1964)、雑誌「太陽」の表紙を玉名の「永安寺東古墳」が飾った。当時は、「原始絵画」と呼ばれ、まだ、「装飾古墳」の言葉はなかった。
新鮮な驚きが全国へ。まさに装飾古墳ブームの火付け役。その永安寺東古墳を中心に、14の装飾古墳や横穴群が眠っている。
玉名温泉街から、車で10分以内、朝の散歩に、午後のくつろぎに、玉名の深い魅力にふれてみよう。
日本の古代史に欠くことのできない重要な地位と役割を果している江田船山古墳―優しい起伏をもつこの古墳は仁徳陵によく似た前方後円墳で、中国の六朝文化の影響を強く受けている。この古墳の出土品は国立博物館に陳列されているが、石棺の中から鏡六面、甲胃、刀剣等の武具類をはじめ、純金の耳飾り、金銅製の冠、沓、玉類、土器等の貴重な副葬品が出土しており、特に重要な遺物は、漢文でかかれた日本で最も古い金石文の一つである銀象嵌の銘とペガサス(羽根をもった天馬)と十二弁菊花紋の彫刻がされた直刀である。いずれも大陸との交流を示す副葬品だ。千五百年の昔、この清原台地には金の冠をかむり、太刀を帯び、金の沓をはいた"王者“がまぎれもなく立っていたことを物語る。
明治5年元旦の早朝、当時江田村(現菊水町江田)の農民、池田佐十の夢枕に白装束の侍が現れ、船山の地を指して「掘れ」と告げた。三晩同じ夢を見た。
「何かある」佐十は夢の指示に従ってその地を掘った。こんもりとした土の丘から船型の石棺が出てきた。中には副葬品が数多く出てきた。
噂は広がり、熊本県(当時白川県)は中央官庁に報告した。出土品は東京国立博物館に買い上げられた。金額は「八十円也」であった(米一俵が一円二十銭の頃)。因みにその頃上京して東京で眼鏡橋を架けていた肥後の石工、橋本勘五郎の月給は六円であった。かって東京国立博物館で出土品の金の冠は正面に飾られていた。