玄界灘沿岸の警固を目的とする防人制度は、当時の基本法である「令義解」に「軍防令」として詳細が決められ、その赴任までの行程についても規程されていた。それには、
――辺境(国境)を守るものを防人と名づける。防人が難波津(大坂)に至る間は、皆それぞれの国司が親身になって掌握し、世話をする。難波の津を出発する日から、専使が掌握して太宰府に送りつけること。――
とある。また兵役の年齢はニ〇歳から六〇歳までの正丁があたることになっていた。正丁というのは、庸、調の課税を受ける男子で、ほとんどは農民である。
さて、軍防令にあるように防人として集められた兵士は、一ヶ月余りの訓練を地元で受けたのち、東国各地(伊豆、甲斐、相模、安房、上総、下総、常陸、武蔵、駿河、遠江、信濃、下野国)を出発し、東海道あるいは東山道を、通過するそれぞれの国の国司があたった部領使に率いられて、西の難波津まで向かった。
難波津からは朝廷の兵部省の役人に率いられて船で瀬戸内海を渡り、博多津まで輸送され、「遠の朝廷」といわれた当時の西海道の中心地、大宰府に到着した。
難波津から大宰府へ向かう間の防人の心情を詠んだ歌として次のようなものがある。
百隈の 道は来にしを
また更に 八十島過ぎて 別れか行かむ