夢二の故郷は岡山県邑久町、明治17年生まれ、生家は酒屋を営んでいた。父は村の顔役で、芸能好き、村芝居を好んだという。
当時、地方巡業の旅一座の面倒をよくみていた。夢二の芝居好きは家庭環境にもある。
幼い頃から絵を描くのが好きだった。
夢二は小学校を出ると神戸中学校(現・神戸高校)に学ぶ、しかし在学八ヶ月で退学し郷里へ帰る。
その頃、一家は北九州八幡へ移り住む。
当時の八幡は八幡製鉄が開設され、新興都市の気運に乗っていた。(夢二は製鉄所の製図工として勤めたかもしれません)。
飽き足らない彼は1年9ヶ月で八幡を去り、無断で上京した。
暫く住んでいた八幡の八幡東区宮川公園には夢二文学碑が建ち、毎年9月、「夢二祭り」が行われている。
ところで、夢二が憧れた青木繁との類似点をみてみよう。
その頃、日本の美術界は文部省主催の「文展」が主流を占めていた。青木繁の画風は文展には異端であった。有名な「海の幸」「わだつみのいろこの宮」は、評価されなかった。作者の感受性、日本人のこころで描かれた絵は認められず画壇から閉め出されていた。
夢二も同じ状態だった。マスコミ界の旗手でさえも、たかが挿し絵画家として画壇の評価外であった。二人とも一度として文展の入選は出来なかった。夢二は挑戦した。大正元年(1912)夢二は京都で個展を開く、時を同じくして京都で「文展」が開かれていた。夢二の個展は文展に勝った。連日多くのファンが押し寄せた。
夢二が憧れた白秋との類似点をみると、共に造り酒屋の長男として生まれるも家出上京するという点。二人は画才も文才も兼ね備えた点でも似ていた。
夢二は白秋詩集の『思ひ出』を愛読していた。アンケートで「好きな詩歌は白秋の詩」と回答している。夢二の作品には白秋からの影響が見えて興味深い。
この九州旅行で夢二は長崎の永見徳太郎宅に滞在した。
郷土史家であり南蛮研究家の彼は夢二を長崎名所に案内した。
夢二の多感な感受性は、彼の案内の巧みさも加わって一段と増幅された。
のちに永見徳太郎に贈られた「長崎十ニ景」は異国と夢二の日本娘とが入り混じった、また一つの新しい世界を出現した。
題材(テーマ)を追うだけでも心が疼く。
眼鏡橋、灯籠流し、凧上げ、ネクタイ、化粧台、阿片窟、浦上天主堂、丘の青楼、サボテンの花、十字架、出島、青い酒‥‥と題した夢二の12景の絵はいずれも想像の世界と現実とが入り混じった情念の世界をかいま見る。
ちなみに、この旅で彼を追ってきた恋人・彦乃と別府で出会うが、既に病んでいた彦乃は別府で入院し、東京へ連れ戻された。その9月、夢二の歌に多忠亮が作曲した「宵待草」が夢二の表紙絵とともに出版され、その切ない抒情は日本全国を蔽いつくした。
(協力)夢二研究家 安達敏昭
著書『夢二の旅~九州から巴里へ~』