鎖国時代にも唯一海外に開かれた窓だった「出島」。寛永13(1636)年から(1859)年までの218年間続き、オランダ商人たちを通じて文化の吸収や蘭学発展に大きな役割を果たした。昭和26年から復元計画が始まり、現在「水門」「カピタン部屋」「ヘトル部屋」「一番蔵」「二番蔵」などが復元されて、当時のオランダ商人たちの暮らしを再現している。
坂本龍馬や勝海舟、西郷隆盛など、幕末に長崎を訪れた志士は数知れない。そこで得た西洋の情報や知識は、「日本はどうあるべきか」と模索する彼らのエネルギーとなった。平成17年にオープンしたこの博物館は、かつて「長崎奉行所」だった跡地を復元したもの。江戸期の日本で海外交流や西洋の知識の拠点だった長崎の歴史を展示してある。奉行所のコーナーで毎週末演じられる“お白洲”での取調べの寸劇も観光客に人気。
「グラバー邸」の主トーマス・グラバーは、日本で最初の汽車を走らせ、高島炭鉱や生糸業、製茶業を起こして維新の志士たちを援助した。彼が薩摩藩士・五代友厚とともに建設したのが、明治元年に竣工したわが国初の近代ドック。ソロバン状の船台から「ソロバンドック」と呼ばれた。後に三菱造船所の原点となる。
天保9(1838)年、佐賀藩10代藩主鍋島直正によって建てられた佐賀城本丸御殿の一部「外御書院」「御三家座」「御玄関」などを復元、平成16年にオープンした。日本の近代化を導いた幕末維新の佐賀の姿を見学できる。日本初の反射炉や日本近代医学の先駆となった種痘推進、造船事業などが紹介されている。
反射炉とは、鉄などの金属を溶かす炉。幕末期の佐賀藩で、10代藩主直正の命により、オランダ書を翻訳して理論を学び、嘉永3(1850)年に城下の築地(現在の長瀬町)で日本初の反射炉を完成させた。これにより国内初の鉄の大砲鋳造にも成功、幕府からも大量の注文を受け、佐賀藩の近代化の契機となった。
文政5(1822)年、現在の川副町に生まれた佐野常民は、藩主直正の命で大阪や江戸に赴き蘭学を学んだ。帰藩後、蒸気船の竣工など佐賀藩海軍の創設に努める。1867年のパリ万博に派遣され、そこでスイスの生んだ「赤十字」思想と出会って感銘を受けたことが、明治の西南戦争の際に「博愛社」設立につながった。敵味方を問わず看護する精神は、その後も磐梯山噴火や日清戦争の救護にもつながり、現在の日本赤十字の基礎が彼によって築かれた。
島津斉彬が藩をリードして進めた「集成館事業」。ここでは慶応元(1865)年に建てられた機械工場の建物を利用し、日本人が撮影した現存最古の銀板写真や、薩摩切子などの伝統工芸品工場として稼動していた頃の機械など、島津氏関連の資料約1万点を展示してある。
第19代島津光久が、万治元(1658)年に別邸として建て、以来代々の藩主に愛されてきた名庭。真正面に見える桜島の絶景は天下の名園と言われており、国の名勝に指定されている。日本で初めて灯ったガス灯の灯篭、中国風の曲水の庭などを始め、秋の菊まつりなども有名だ。
明治100年を記念して鶴丸城跡に建てられた歴史資料センター。鹿児島の古代から現代までを、歴史・民俗・美術・工芸など多角的な切り口で紹介してある。幕末維新期から西南戦争に至るまでの資料はとくに豊富である。