初めに。「太宰府」か、「大宰府」か?つまり、点のある「太」か、点のない「大」かの表記の問題である。現地を訪れると誰しも疑問を持つのだが、両説があって厳密に言うと定見がない。地名(太宰府市)や観光名所(太宰府天満宮)には点のある方を使い、歴史や史跡関係には点のない方を使うのだろう 位のことはわかるのだが、それ以上のこととなると少しややこしくなる。
今はそうでもないが、かつて昭和の初期から、ほんの30年前頃まで、この「点のある、なし」も学問上の大論争であった。ある高名な学者の昭和59年の説明。「点のない大宰府は8世紀に成立した律令制下の役所を指す。ところが12世紀に鎌倉幕府の鎮西奉行が置かれ、大宰府がなくなった。そこで鎌倉時代からは太宰府と書き、両者を区別するようになった▽「その証拠に、中世(鎌倉時代)以前の文献には太宰府と書いた用例はない」。
ところがその後、在野の研究者からの反証があった。それは「中世以前のれっきとした歴史書にも、点のある太宰府の表記がある」という指摘で、漢詩集『懐風藻』(成立・751年)、勅撰史書『続日本後紀』(同・869年)、法令集『延書式』(同・927年)など多くの文献を示したのだ。
さしものホットな論争にもちょっと水が注された。しかし、別の学者が反論する。「それは反証とは言えない。名前のあがった文献は今では原本が失なわれて無く、いずれも後世の筆写本である。筆写であれば、後世の漢字の用例として、ついうっかり点入りの太宰府としたのだろう」。これに対し、また反論が出る。「原本がないのだったら果して後世の筆記者が本当に全部に写し間違えたと言えるのか」……。
今では「太でも大でも、どちらでも良いではないか。古代でも中世でも、果ては近世でも当て字がザラにある」という意見が支配的である。大宰府史跡を永年にわたって発掘調査している九州歴史資料館(太宰府市)では「律令制下の役所と官職に関わる表記は大宰府、地名に関わる表記は太宰府とする」との見解をとっている。
「いや、違う。太宰府とは『太宰の府』という意味で、古代・中国の用例に倣う。当地は律令制のはるか以前の時代に遡る、古い歴史を有する場所で奈良、京都に先立つ我が国の首都であった」というユニークな見解もある。
さて、いずれにせよ、「太」か「大」かは一般的にはこの文章の初めのように"常識的“に使われている。以下、本誌でも古代の歴史関係は「大」宰府と記す。
(さわらび社刊 「大宰府」 岡本顕實著)