金栗四三

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マラソンの父 金栗四三が歩んだマラソン人生

0歳~少年時代

0歳~少年時代

和水町出身

自然豊かな熊本県北西部の和水町(なごみまち)で 1891年(明治24年)に誕生した金栗四三。「四三」命名の由来は、四三の父が43歳の時の子供だったことから。実は今でこそ「日本マラソンの父」といわれている四三だが、2歳頃までは夜泣きが激しく、また5歳頃までは病気がちで、ひ弱な子どもだったという逸話が残っている。

金栗マラソン人生のはじまり

金栗がマラソン人生の礎を築くのは“あること”がきっかけだった。その“あること”とは、自宅から玉名北高等小学校(現 南関第三小学校)までの山坂を越える往復約12キロの通学路を、毎日走って行き戻りする「かけあし登校」。これは、のちに本人も「マラソンの基礎は、小学校時代に(片道)一里半の通学を行った事である」と語っていることから、この通学路は「金栗ロード」と呼ばれている。

20代

20代

次第にマラソンの才能を発揮し始めた金栗は、1911年(明治44年)に開催された日本初のオリンピック国内予選大会で当時の世界記録を27分も上回る2時間32分45秒の大記録で優勝し、初のオリンピック日本代表選手に選出されたが、「先生、私には荷が重すぎるようです」と恩師・嘉納治五郎からの知らせを一度は固辞。「日本スポーツ界の黎明の鐘となれ」という嘉納の言葉に奮い立ち、日本のオリンピックの扉を開ける決意を固めた。

21歳

21歳

日本中の期待を背負い、日本人初のオリンピック選手として1912年(明治45年)第5回ストックホルム大会のスタートラインに立った金栗であったが、開催地までの17日間にも及ぶ長旅や、慣れない環境などで体調万全とはいかず、さらに当日の酷暑が追い打ちをかけ、レース途中で意識を失ってしまった。

21歳

21歳

レース途中で意識を失った金栗は、近くの民家に保護され、目が覚めた頃、大会はすでに終わっていた。金栗はレースを諦めそのまま帰国した。主催者側は、レースに復帰できなかった金栗を行方不明者として扱い、現地では“消えた日本人”と話題になった。

29歳

29歳

現在では、一般的となっている高地トレーニング。この元祖となったのが、金栗が始めた富士登山の合宿といわれている。その練習内容は、御殿場の駅から登山口の太郎坊を経て、頂上までの猛練習。日本一の標高差を誇る「富士登山駅伝」は、この富士登山合宿をヒントに始まったとされ、大会の創設にまで影響を与えるほどであった金栗が日本マラソンの父と称される所以といえる。

30代

30代

ストックホルム大会の大敗後、「日本を強くするにはマラソン選手の育成すること。一度にたくさんの選手を作るには、駅伝競走が最適だ」と駅伝創設を呼び掛け、それに応じた早大、慶大、明大、東京高師(現 筑波大学)の4校によって、「四大専門学校対抗駅伝競走」第1回大会が開催された。これが新春の風物詩となった箱根駅伝の始まりとなり、現役中に箱根駅伝を創設したのであった。

64歳~72歳

64歳~72歳

江崎グリコの創業製品である栄養菓子「グリコ」。そのパッケージに描かれるゴールインマークは、大正11年から始まり、現在は7代目となっている。この2代目のモデルのひとりが金栗だった。たくさんの方々に親しまれている「ゴールインマーク」、金栗の人柄もマークに表れているのではないか。

76歳

76歳

ストックホルム大会で行方不明扱いとなった金栗。月日は流れ、76歳となった1967年(昭和42年)にストックホルム大会開催55周年を記念する式典が開催された。当時の記録により、金栗が「競技中に失踪し行方不明」のままとなっていることがわかり、委員会は金栗をゴールさせるため、記念式典に招待した。記念式典当日、大観衆の競技場を金栗が走り、テープを切ったとき「日本の金栗、ただいまゴールイン。タイム54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3.これをもって第5回ストックホルム大会の全日程を終了します」とアナウンスされた。この記録はオリンピック史上最も遅いマラソン記録とされている。

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