こんなにあるの?!ディープな九州隠れ古墳10選巡り

かめづかこふん

亀塚古墳

古代ロマン度(おすすめ萌え度):★★★☆☆
古墳にコーフン度(美しさ度):★★★★★
イケフン度(知名度):★★☆☆☆

葺石と円筒埴輪で往時の姿が再現された前方後円墳

亀塚古墳の画像

海部王が誇った力を実感できる巨大墳墓

国史跡/前方後円墳=墳丘長約116メートル/後円部の高さ約10メートル
築造=5世紀初め頃
九州北部では福岡県岩戸山古墳に次ぐ大きさで海部の民(あまべのたみ・海上交通に従事する集団)の首長(海部王・あまべのきみ)墓と考えられています。原形をよくとどめた古墳で、葺石(ふきいし)や円筒埴輪(はにわ)の展示のほか、後円部のすぐそばで見つかった小亀塚古墳など、古墳本体のみならず、周辺が整備・公園化された様子は一見の価値ありです。

動画

海部王が眠る聖地
大分県下最大級の前方後円墳。1996年(平成8年)に国史跡に指定され、付近は亀塚古墳公園として整備されました。その存在が長く忘れ去られていたため造成や開発も行なわれず、そのためかえって墳丘がきれいに保存されており、3段築成の墳丘やくびれ部分の造出(つくりだし)が確認できます。埋葬施設は後円部墳頂に二つあり、石棺が埋められた様子が復元されています。
前方部から後円部まで続く見学路に立ち寄るのをお忘れなく。思った以上の見晴らしのよさで、この地方を治めた首長、海部王の力の一端を知ることできるでしょう。

亀塚古墳西方から別府湾方面を望んだ夕景の画像

亀塚古墳西方から別府湾方面を望んだ夕景。夕陽が映えた川面は丹生川のもの。(大分市 提供)

亀塚古墳の後円部墳丘と墳頂に並べられた円筒埴輪の画像

後円部から前方部へ下りた辺りから見上げた、亀塚古墳の後円部墳丘と墳頂に並べられた円筒埴輪。

築造時の姿を伝える葺石と埴輪
前方後円墳の墳丘には、築造時に葺石が敷かれていたものも多く見られます。また、時期によって異なりますが、いくつかの段(段築)が設けられました。一般的に大型古墳で3段築成、それ以下のものは2段築成が多くなっています(亀塚古墳は3段築成)。
また、墳丘の各段の平坦部分には大きな円筒埴輪や形象埴輪が並べられていました。円筒埴輪はお供え用の器台形土器から発展したとされ、王が葬られた区域を祀るために置かれたと考えられています。しかし6世紀になると、埴輪は次第に小さくなり、大量生産のためか、作りも粗雑になっていき、やがて前方後円墳の消滅とともに姿を消すこととなったのです。

墳丘の左側から見た亀塚古墳の画像

墳丘の左側から見た亀塚古墳。画面右手の前方部、画面中央の後円部、それぞれの段築や円筒埴輪がよく観察できます。

造出に配置された埴輪の画像

造出に配置された埴輪。古墳によっては、造出部分にさまざまな形の埴輪が並べられ、生活の様子や物語性を示しているものもあります。

前方後円墳の埋葬施設
巨大なお墓、前方後円墳では、亀塚古墳がそうであるように、被葬者は後円部の墳頂に造られた埋葬施設に葬られました。ほかの大きな前方後円墳では、前方部の端付近(しゃもじで喩えれば取っ手先端部)に埋葬されたものも見られます。
亀塚古墳の埋葬施設は、後円部の墳頂に竪穴(たてあな)を掘って埋められた石棺です。その脇には、追葬(ついそう)された死者を葬った別の竪穴も確認されました。しかしそのいずれもが、古い時代に1メートルほど掘り下げられた痕跡があり、徹底的に盗掘の被害に遭ったことがわかっています。
なお、石棺は大きな石の板を組み合わせて造られた組み合わせ式箱形石棺で、埋められていた様子が現地で復元展示されています。

亀塚古墳の後円部に設けられた埋葬施設の画像

亀塚古墳の後円部に設けられた埋葬施設。蓋を開けた状態の石棺が復元展示されています。

海部の民とヤマト王権の関係は?
海産物をヤマト王権の朝廷に献納(けんのう)し、またさまざまな職能をもって仕えた人々「あまべ」は海部、海人部とも書き、律令制以前(7世紀後半より前)から存在していたことが知られています。その後、律令制下では紀伊(現在の和歌山県と三重県の一部)、尾張(現在の愛知県西半部)、隠岐(現在の島根県隠岐郡)、豊後(現在の大分県南部)の4か国に海部郡が置かれました。この4か国はいずれも海上交通における重要な場所で、豊後水道の北で瀬戸内海に通じる豊後は、畿内のヤマト王権と強い結びつきを持っていたと考えられています。
別府湾に面した海部郡はこうした海上交通の要衝(重要地点)の一つで、その首長の墓である亀塚古墳の様式(墳丘の築成や埴輪の配列、埋葬施設など)や大きさなどが、この地域におけるヤマト王権との深い関係性や、5世紀初め頃に隆盛を誇っていたことを表しているのです。

海部古墳資料館の外観の画像

海部古墳資料館の外観(大分市教育委員会提供)

この地域のムラの様子を再現したジオラマの画像

この地域のムラの様子を再現したジオラマ

勢力減退を如実に示す小亀塚古墳
亀塚古墳の周辺は1993年(平成5年)から保存整備が進められ、96年(平成8年)国の史跡指定後に公園として一般開放されています。これに先立つ調査の際、亀塚古墳の北東約30メートルにあった小亀塚(こかめづか)古墳が前方後円墳だったことがわかりました。墳丘長約35メートルの小亀塚古墳の築造は5世紀後半頃と見られていて、亀塚古墳より後に造られたものです。
陪塚(ばいちょう)の可能性も指摘されていましたが、調査によって亀塚古墳より後の首長墓だったことが判明しています。墳丘の規模は大幅に縮小していて、この地域の勢力が弱体化していたためであろうと推察されています。
整備・復元された後円部の墳頂には、埋められた形で石棺の模型が展示されていますが、同古墳は徹底的に盗掘された際に石棺も破壊されていたため、形などは想像して復元されたものです。

亀塚古墳公園案内図の画像

亀塚古墳公園案内図(大分市教育委員会提供)

小亀塚古墳の墳丘の画像

小亀塚古墳の墳丘(大分市教育委員会提供)

コロナ感染防止のため、古墳の見学や入場が制限される場合がございます。予めご確認下さい。


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豊予海峡の急流で育ったアジ・サバは大ぶりで脂が程よくのっているのに、身がしまり歯ごたえも味も抜群!。魚を傷めない一本釣りという漁法や面買いと言う独自の取引方法、活けじめによる鮮度などの厳しい基準をパスできた魚だけが大分の「関もの」の称号を得られるのです。せっかく地元で食べるなら是非お刺身でどうぞ。

関あじ・関さばの画像

アクセス

電車で行く場合

JR日豊本線・坂ノ市駅より徒歩40分

車で行く場合

東九州自動車道・宮河内ICより車で10分