見知らぬ観光地で、“まち歩き”を楽しみたいけど一人では不安を感じることも多いのでは。そんなときに利用したいのが、「鹿児島ぶらりまち歩き」。西郷隆盛銅像横にある鹿児島まち歩き観光ステーションで事前予約を受け付けていて、「なるほど!南九州最大の繁華街・天文館」「明治維新と近代日本を築いた偉人たちの誕生地」など、全部で13コースあります。今回はその中の人気コースを実際に体験してきました!
今回は人気の「西南戦争最後の激戦地・城山で西郷を偲ぶ」コースを、鹿児島まち歩きボランティアガイドの田代勉さんと一緒に回ってみました。鹿児島まち歩き観光ステーションに所属するガイド歴3年の田代さんは、優しい笑顔と気さくな人柄が評判のガイドさん。「何でも聞いてください」と田代さんの頼もしい言葉を聞きながらスタートします。
コースは、①城山展望台→②西南戦争薩軍本営跡→③西郷洞窟→④西郷隆盛終焉の地→⑤私学校→⑥鹿児島城(鶴丸城)跡→⑦天璋院像(篤姫)→⑧御楼門→⑨西郷隆盛銅像です。
鹿児島のシンボルといえば、まず「桜島」を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。時折噴煙を上げては火山灰を降らす標高1,117mの活火山で、地元の天気予報では桜島上空の風向きと降灰予想エリアがセットで報じられるほど、日々の“ご機嫌"が気になる存在です。標高107mの城山展望台から眺めると、眼下に広がる鹿児島市街地と波穏やかな錦江湾、そして桜島が一幅の絵のように見えます。桜島は、過去の大爆発で多量の溶岩が流出し、特に大正3(1914)年の大噴火では、桜島と大隅半島の間にあった瀬戸海峡を埋め尽くし陸続きになりました。このときの火山灰は上空8,000mにまで達し、風に乗ってカムチャッカ半島まで灰が届いたといわれます。その雄大な山容は、どっしりと構えた明治維新の英傑・西郷隆盛とどこか重なるようです。
明治10(1877)年の西南戦争は、国内最後の内戦といわれます。熊本県田原坂での政府軍との戦いで次第に形勢が不利になった薩軍は退却を余儀なくされ、鹿児島に戻り最後の本営地としたのが、ここ城山です。この一帯はかつて上山氏の城(砦)があった場所で、後に初代薩摩藩主の島津家久がここに本丸・二の丸を築いた歴史のある場所。築かれた土塁が今もその名残をとどめます。
ところで、なぜここが「ドン広場」かというと、明治30年から昭和12年にかけて正午の時報がわりに空砲を撃っていた広場だったからです。正午きっかりに「ドーン」という轟音が鳴り響き、市民は皆、「ドンが鳴ったで昼飯じゃっど」と昼食の合図にしていたそう。
城山から遊歩道を進み、さらに小道を下って岩崎谷へと歩くと、西郷洞窟の前に出ます。西南戦争は政府軍の攻撃が一段と激しくなり、薩軍は洞窟を掘って本陣をこの中へ移しました。9月24日の早朝から政府軍の城山総攻撃が始まると、死を決した西郷隆盛らは夜明けを待って洞窟を出ました。そして、岩崎谷を下ります。
洞窟を出たのは、西郷隆盛が設立した「私学校」の幹部・桐野利秋、別府晋介らも一緒でした。当時と同じように谷を下ると、右手にJR線の岩崎谷トンネルが見えてきます。このトンネルは城山を貫通するトンネルで、出口側には、西郷隆盛の座右の銘「敬天愛人(けいてんあいじん)」が刻まれています。ちなみに、入口側には、大久保利通の「為政清明(いせいせいめい)」が刻まれています。鉄道のトンネルに偉人の座右の銘が刻まれているのは、全国的にも珍しいそう。
さて、岩崎谷の洞窟を出てわずか300mのところで、流れ弾が西郷の右太腿を貫通し、西郷は歩けなくなってしまいました。「晋どん、もうここらでよか」と西郷は桜島の方角を向いて拝礼すると別府晋介の介錯で、49歳の生涯を閉じました。桜島の方角には何があったのでしょうか。ガイドの田代さんは、「東京の方角であり、自分に厚い信頼を寄せてくれた明治天皇に対する謝罪とお礼を伝えたかったのではないか」と解説してくれました。
西郷を偲ぶまち歩きは、いよいよ国道10号沿いへ。歴史と文化の道と名付けられた直線道路を歩きます。西郷隆盛が設立した「私学校」跡は、石塀に政府軍の銃弾の跡が残り、当時の記憶をとどめているかのようです。
そもそも、「私学校」は何のために建てられたのでしょうか。明治新政府の中核にいた西郷隆盛でしたが、遣韓使節をめぐる政争に敗れ、辞表を提出して帰郷。一農夫としての暮らしを望みますが、西郷を慕って続々と帰郷した若者たちに求められるまま、旧鹿児島城(鶴丸城)の厩跡に銃隊学校と砲隊学校を造ります。これらを本校にした私学校は城下に12、県下に136もの分校ができ、幼年学校もできるなど、年々強大化していきました。
全国各地で政府への不満を募らせた士族の反乱が相次ぐ中、ついに私学校でも過激派の生徒が政府の挑発にのせられて暴走し、政府火薬庫を襲撃しました。このとき大隅(おおすみ)半島南部の根占(ねじめ)に逗留していた西郷は「ちょっしもた(=しまった)」とすぐに鹿児島に戻り、「おはんらは何たることをしでかしたか」とさすがに堪忍袋の緒が切れた様子だったとか。しかし、首謀者の引き渡しか全面戦争か、と迫られた西郷が出した答えは、私学校の生徒に向けた「おはんらにやった命」という一言でした。こうして、西南戦争の火ぶたが切られたのです。
篤姫(あつひめ)は、薩摩藩の名君・島津斉彬(しまづなりあきら)の養女で、第13代将軍徳川家定の正室に迎えられた賢女。家定亡き後、天璋院(てんしょういん)となり江戸城の大奥を守り切ったことは大河ドラマで知られるようになり、記念像も建立されました。篤姫は一度も里帰りをすることなく、勝海舟と西郷隆盛が江戸城無血開城を成し遂げたときも、西郷に長い手紙を書いて、「徳川の名前だけは残してほしい」と徳川家の存続に尽力したといいます。篤姫が養女時代に過ごした鶴丸城には、どんな景色が広がっていたのでしょう。
斉彬・篤姫・西郷・大久保そして薩摩藩家老小松帯刀(こまつたてわき)らが当時見たであろう鶴丸城の御楼門が復元されたのが、令和2(2020)年3月。島津家18代当主で、のちに初代薩摩藩主となる島津家久が鶴丸城築城に着手したのが慶長6(1601)年ごろといわれます。御楼門は約400年の歴史を刻みます。しかし、この間に何度となく焼失し、明治6(1876)年以降は城壁が残るのみでした。
城内跡の発掘作業を経て忠実に復元された御楼門。高さ・幅ともに約20mあり、石垣とは独立した楼門型としては日本最大級です。1階は総ケヤキ造り(番所はヒノキ造り)、2階はヒノキ・マツ・ケヤキなど全国から集めた木を使っています。「特に薩摩義士による木曽川治水事業の縁で今も交流が続く岐阜県から寄贈されたケヤキが大扉に使われています」と田代さん。薩摩義士碑は、私学校跡と鶴丸城跡の間に見ることができます。
この御楼門には、青銅製では日本最大級の鯱(しゃちほこ)が載っています。正面右が「阿(あ)形」、左が「吽(うん)形」の2対の鯱で、富山県高岡市で造られたものです。また、見張り小屋などに付けられた鬼瓦は全部で19枚。愛知県碧南市で造られたものです。国内の伝統工芸の技を集結して完成した楼門なのです。
ぶらりまち歩きのゴールで待っているのは、軍服姿の西郷隆盛銅像です。銅像の身長はおよそ5.2m、台座も含めると約8mの大きさです。東京の上野公園にある浴衣姿の西郷像と違い、西郷隆盛が習志野大演習で陸軍大将の制服を身に付けた姿を思い描いて制作したものといわれます。制作者は、鹿児島出身の彫刻家・安藤照。渋谷駅前の初代忠犬ハチ公の制作者です。ちなみに、鹿児島市立美術館内に、ハチ公の石膏原型像があるので、興味のある人は、立ち寄ってみては。
鹿児島の旅の記念に西郷隆盛銅像と一緒に写真を撮るなら、中央公民館前の撮影スポットがお勧め。愛犬カヤのオブジェも置いてあります。ガイドさんに声掛けしてみて。ところで、皇室との縁も深い城山。城山展望台には、昭和天皇が皇太子時代に訪れた碑と、婚約前の良子様が訪れた碑がそれぞれあるそう。後に昭和天皇・香淳皇后となるお二人のご成婚を記念して建てられたのが、撮影スポットのある中央公民館です。そういう縁に思いを馳せながら城山を見上げると、明治天皇を支える初代近衛都督陸軍大将を務めた西郷隆盛の軍服像がしっくりなじんで見えるような気がします。
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